「ねえ、スプリングエフェメラルって知ってる?」
隣に座る君が、いつも通りの軽やかな口調でそう言った。その表情は見えないけれど、もう涙は乾いたのだろうかと、少しほっとする。
「なにそれ、知らないや」
僕らは一本の樹の幹に背中を預ける形で地面に座っている。僕の右手のすぐ近く、少し動かせば触れてしまいそうな距離に、君の白く綺麗な左手がある。君が泣いている間、優しく触れるべきか、力強く握るべきかと散々悩んだ末に結局何も出来なかった僕には、その数センチの距離が苦しくもどかしい。
そんな僕の煩悶も知らずに、君は続けた。
「スプリングは、春だよね。で、エフェメラルは、短命とか、儚いとか、そういう意味」
「春の短さを表す言葉?」
「直訳するとそうなんだけど、正確には、春先に花を咲かせて、その後すぐに地面に隠れちゃうような花のことを言うらしいんだ」
「ふうん」
「カタクリとか、ヤマブキソウとか、イチリンソウとか」
君が口にしたその花々の姿を、僕はうまく思い浮かべることが出来なかった。
「でも私、その言葉を知って、最初に思い浮かべたのは違う花なんだ」
「へえ、何?」
僕の問いに君はすぐには答えず、左手の人差し指を立てて上に向けた。その先を目で追わなくても、そこに何があるかは分かる。
その白色の花弁は今も柔らかな風に吹かれて僕らの頭上をヒラヒラと舞い、その一枚一枚が陽光を乱反射して無数の煌めきを放っている。それを見上げた君の頭が幹にそっと当たり、僕のお腹の辺りが温かくなる。
「桜って、わーって咲いて、数日後には散ってなくなっちゃうじゃん。それこそスプリングエフェメラルだなぁって、思ったんだ」
「なるほど、徒桜だね」
「え、何それ。アダザクラ?」
今度は僕が説明する番のようだ。
「『明日ありと、思う心の徒桜、夜半に嵐の吹かぬものかは』。親鸞聖人が詠んだ和歌だね。明日も咲いているだろうと思っても、桜の花は儚いから、夜のうちに嵐が吹いて、全てなくなってしまうかもしれない。この世は無常で、明日がどうなるか分からない。だから今を精一杯生きねば、というメッセージとして解釈されているよ」
「へえー、知らなかった! ヨシノくんは物知りだなぁ」
「ま、まあ、桜に関する逸話だからね」
褒められた事が嬉しくて、照れ隠しにぶっきらぼうな言い方になってしまった。
「……ねえ、スプリングエフェメラルはさ、花が終わった後死んじゃうんじゃなくて、地中でひっそりと生き続けて、また次の春に顔を出すんだよ」
君の声に、また震えが混じった。そこにある感情は、怖さだろうか、悲しさだろうか。
「桜だって、花が全部散っちゃっても、次の年にはまたいっぱい綺麗に咲くでしょ?」
「うん」
「だから、きっと、大丈夫だよね。もうすぐ、この世界が終わっても、またいつか、みんな戻るよね?」
この世は無常。本当にそう思う。だってこの世界は、じきに終わりを迎えるのだから。
これが最後となる、精一杯生きるべき「今」、僕がすべきことは何なのだろう。また泣き出しそうになっている君に、かけるべき言葉は、何なのだろう。
僕は今度こそ右手を動かし、小さく震える君の左手に重ねた。でも僕の手は、触れることも、掴むこともできず、すり抜けてしまう。やはり、だめか。最後だからって奇跡は起きない。
何と答えればいいのか分からずにいると、君が先に口を開いた。
「アダザクラ、先の事は分からないか……。ねえ、ヨシノくん、私、君にはとっても感謝してるんだよ」
「……どうしたの、急に」
「今できることを、ちゃんとやらなきゃなって思って。だから言うね」
君は立ち上がり、振り向くと、両手でそっと幹に触れた。
「ずっとずっと、長い間、私の話を聞いてくれてありがとう。ヨシノくんがいたから、私は独りでも寂しくなかった」
そんなの、僕だって同じだ。
僕も立ち上がる。触れられなくても、手を重ねる。視えなくても、君と向き合う。君の頬には綺麗な涙が伝っていた。
君が僕を見つけてくれた。僕を認識してくれた。僕に名前をつけてくれた。だから、僕がここに生まれた。
「僕だって、君に感謝してるよ」
君は小さく微笑むと、目を閉じて、幹に唇を軽く押し当てた。硬い樹皮が君の柔らかな皮膚を傷付けてしまわないだろうかと心配になる。
僕の品種名がソメイヨシノであると知った君が、僕を「ヨシノくん」と呼び始めた時は、なんて安直なネーミングだろうと呆れもした。けれどそれが、種として曖昧に希薄化した集合思念から僕の自我を切り離し、固定し、形作った。僕は君の唯一の話し相手となり、友人となり、そして、僕は君に、叶わぬ恋をした。
「ああ、もう終わるね」
君は、どこか爽やかな諦めも混じる声で言う。
「最期が一緒でよかった」
泣きそうになる。君がそう思ってくれるなら嬉しい。この終焉はきっと、悲劇ではなくて、最高の幸福だ。それなら、僕はこのエンディングを、僕の持てる全ての力で、美しく彩ろう。
心は君を抱きしめながら、僕は優しい風に乗せて体を震わせた。白色の花弁がぶわりと広がり、視界を覆い尽くすほどにひらひらと舞い踊る。君が歓喜の声を上げた。
やがて花弁はゆっくりと地面に降り積もり、辺り一面を眩いほどに白く、染めていく。それらは穏やかな風に撫でられて、波のように柔らかく起伏する。
「すごい、桜の海だね……。私も君みたいに、綺麗ならよかったな」
「僕はこの世界で、君ほど美しいものを他に知らないよ」
「ふふっ、ありがとう」
君はその頬を伝う美しく透明な涙を拭い、満足そうな笑みを浮かべた。
さよならの言葉はいらない。共に終われるのだから。
僕は、温かく満たされた心で、そっと、目を閉じた。
🦋🌸
僕たちはベンチに腰掛け、息を整えた。ここに来るには何段もある階段を上らなければいけないから、とても疲れる。
「大丈夫かい?」と、隣に座った君に訊いた。
「ふう、大丈夫よ」と、君は優しく微笑んで答える。
「でも、見頃は過ぎてしまったみたいだね。この丘の桜を、また見に来る約束だったのに、すまないね」
僕が言い、君も前を向いた。
僕らの視線の先に立つ桜の木には、花は一輪も残っていなかった。その代わり、辺り一面が散った桜の花弁で満たされていて、それが風に吹かれて穏やかに波立っている。
「こんな景色もとっても素敵じゃない。まるで桜の海の中にいるみたいよ」
「美しい表現だ。……ん? あの幹の途中、何かあるね」
桜の木の幹、その中程に、寄り添うように別の植物がくっついているのが見えた。緑の葉や茎はどこか力なく、白い花は萎れてしまっている。
「あら、珍しい。着生した胡蝶蘭ね」と君が言った。
「着生? 胡蝶蘭って鉢植えの印象しかなかった」
「ええ。野生の蘭は土に根を張らずに、着生といって他の樹木に付着して育つのよ」
「そうなのか。なんだか、仲良しの恋人みたいだな。もう、枯れちゃってるみたいだけど……」
ふと感傷的な気持ちになる。終わらないものはないというこの世の無常を、あの萎れた花が物語っているように感じた。
「『胡蝶の夢』という言葉があるけれど、あの蝶の形をした花も、夢を見ていたんだろうかね」
夢と現、どちらがまことの世界か、僕らには判断ができない。僕たちの世界も、一羽の蝶が見ている夢なのかもしれない。それなら、胡蝶の名を持つ花が見る夢も、また一つの世界と言えるのではないか。
花は枯れ、世界は終わる。あらゆるものが宿命として抱える昏き終焉の気配に、胸が軋むように痛む。
「だとしたら、きっと素敵で幸せな夢ね。だってこんなに綺麗な桜と添い遂げたんだもの」
君らしい考え方だ、と僕は思う。先程生じた仄暗い感傷が薄れ、幸福な気持ちが体の内側に広がっていく。君はいつも、優しく綺麗な心と言葉で、いとも容易く僕を温めてくれる。
「それに引き換え、最後に隣にいるのがこんなにしわくちゃなおばあさんで、ごめんなさいね」
「それを言うなら僕だってしわくちゃなおじいさんだ。それに、僕はこの世界で、君ほど美しいものを他に知らないよ」
「ふふっ、ありがとう」
僕は右手を動かし、君の左手を握った。沢山の皺が刻まれ、シミも浮かんだその手。でも、僕と一緒にずっと歩んでくれた人の、愛おしく美しい手。君と共に命の終わりを迎えられることを、最高の幸福に感じる。
「ねえ、最後に、ちょっと恥ずかしいお願いをしてもいいかしら」
「何でもどうぞ」
「学生の時みたいに、呼んでみてもいい?」
頬を染めて照れながらそういう君は、出会った頃の少女のように見えた。
僕がうなずくと、君はその頬を伝う美しく透明な涙を拭い、満足そうな笑みを浮かべた。
さよならの言葉はいらない。共に終われるのだから。
「大好きよ、吉野くん」
僕は、温かく満たされた心で、そっと、目を閉じた。
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五回目の三題噺チャレンジ。
お題は「海」「徒桜」「胡蝶蘭」、でした。
ありがとうございました!