【掌編】CROSS SAVIOR

【掌編】CROSS SAVIOR

お題:神


 穏やかな温もりを持った唇が、そっと離れた。彼が塞いでいた私の口元に、教会の静謐な空気が触れた。
 たったこれだけのことで、あれだけ溢れていた涙も叫びも、呆気なく止まる。
 全身が雷に打たれたように硬直し、やがて思い出したように熱が胸元から溢れ出し体中を駆け巡る。

「……ごめん」

 愕然とする私から目を背けるように、彼はその長い睫毛を伏せて、消え入りそうな声で言った。

「なんで、謝るんですか……」

 辛うじて絞り出した私の声は、震えていたかもしれない。
 私はこの人が好きだった。もっと幼い頃からずっと。
 母から虐待を受ける度、私はこっそり家を抜け出しては、蒼白な顔でこの海沿いの小さな教会に駆け込み、貯め込み続けた涙と悲鳴を彼の腕の中で解き放った。柔らかな神父服とその下の硬い体に包まれる事は、いつも安らぎ以上の感情をもたらした。全てを受け止めてくれる彼への好意と妄執は、私の中でもはや信奉に等しい程に膨らんでいた。

「僕は黙って受け止め続けなければいけないんだろう。でも、腕の中で泣き続ける君を見る度に、僕の心の欲望の牙が育っていくんだ」

 彼は眼を開け、私を見た。ステンドグラスを通して様々な色彩を得た光の粒が、彼の美しい頬に当たって弾けていた。

「君の涙は、何よりも僕の心を引き裂くんだ。もう耐えられないんだ。必ず幸せにするから、僕のものに、なってくれ」

 彼の両手が伸ばされゆっくりと私の肩を越え、背中に回されていくのが分かった。私の纏うセーラー服が、歓喜と後悔に震えた。
 受け止めてくれるだけで、よかった。それ以上なんて恐れ多くて、望む気持ちさえ押し殺していた。でも私の叫びが、いつの間にか彼をも苦しめ、狂わせてしまっていた。
 彼の手が、私に触れてしまう前に、私は溢れる感情を奥歯で噛み砕き、両手で彼の胸を突き飛ばした。よろけて床に尻を付いた彼を見下ろし、私は告げる。

「ごめんなさい……。私はあなたの欲望には答えられない」
「何故だ! あれだけ尽くしたのに! 何故僕だけが我慢しなくちゃいけない!」

 ああ、神はいないと、思った。
 そこにいるのは、眼を血走らせた、私と同じ悲しい生き物だった。

「ごめんなさい。ずっと言えなかったけど、私は、あなたと同じ、男です」

 彼が眼を見開いた。
 私は、胸元から彼に向かって延びる幾重もの執着と依存の太い糸を引きずったまま、赤い絨毯を踏みしめて教会を出た。風が強く、海が、荒れていた。

   *

 彼に言った事は、嘘ではなかった。
 私は自室で泣きながら、先程母に付けられた傷を消毒し包帯を巻いた腕で、ピンセットを持ち、体毛を毟った。
 女児を望んでいたらしい母は、私の体に男の要素を見つける度、醜いと詰り飽きるまで殴り続けた。生きる為に母の望む服を着て、母の望む言動を繰り返すうち、私は心まで女性となったが、成長するにつれ現れる性徴に、暴力は増して行った。足や肩や背が大きくならないように、ギチギチと縄で縛られて眠らされた。
 学校にも味方はおらず、男子にも女子にも気味悪がられ、様々な嫌がらせを受けた。

 あの海辺の教会は、彼の腕の中は、私の唯一の居場所だったのだ。
 それを今日、私は失った。
 私を求める彼の腕と心を、嬉しく思った。でも彼の牙が私に突き立つ時、間違いなく彼は私に絶望する。それが何よりも恐ろしかった。
 でも今日、私は失った。
 彼は、私の生きる意味だった。
 それを今日、私は失った。
 体毛を毟る私の手が、止まった。

   *

 翌日の天候は、朝から世界の終わりの様に荒れていた。大粒の雨が滝の様に家を叩く音がし、雷鳴が轟いている。
 私はナイフを握った手を後ろに隠し、母のいるリビングの扉を開けた。いつもの椅子に母はおらず、私の眼は床に倒れた人間の体を捉えた。近付くと、それは胸元を十字に切り裂かれた母の亡骸だった。そこから流れ出した血は、すっかり黒く凝固している。
 テーブルに置かれた手紙に気付いた私は、ナイフを置いてそれを読んだ。

  君はもう自由だ。好きに生きなさい。
  君は信じないだろうが、君が何者であろうと、僕は君を愛している。
  この紙は、読み終えたら燃やすんだよ。

 私は豪雨の中、手紙を握りしめて教会へ走った。重い扉を開けると、彼が十字架の下で倒れていた。傍らに刃物と、錠剤の入った瓶が転がっていた。
 彼のそばに膝をつき、その白くなった頬に触れようとした。
 窓から光が弾け、直後の爆音に私の鼓膜は破壊された。教会のステンドグラスが粉々に砕け、そこから白い稲妻が、痛みを感じる暇さえ与えずに私の体を貫いた。舞い散るガラスの様々な彩りがただ美しいと感じ、焦げた私の頬に最後の涙が伝った。

 私の体はゆっくりと彼の上に倒れながら、

 ああ、神はいる、と、思った。

『逢う日、花咲く。』で第25回電撃小説大賞を受賞し、デビュー。著書は他に『明けない夜のフラグメンツ』『世界の終わりとヒマワリとゼファー』『君を、死んでも忘れない』『この星で君と生きるための幾億の理由』『あの日見た流星、君と死ぬための願い』

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