【掌編】前を向くライオン

【掌編】前を向くライオン

お題:新人


 黄金の鬣を靡かせて、太く逞しい前脚を岩にかけ、その獅子は唸る様な声で言う。

――これから初めて獲物を追うお前に、狩りの心得を教える。

 はい。お願いします。

――まず我々は強くなどない。他の生命を奪わなくては生きることさえ適わない、血と肉の定めに縛られた、悲しい生き物だ。それを忘れるな。

 はい。

――我々が奪い喰らおうとしている命にも、家族があり、それまでの歩んだ歴史があり、これからの輝く未来がある。我々はその重みを全て背負い、生き続けなくてはならん。

 …はい。

――目の前の命を奪う刹那、獲物の悲鳴は優しいお前の心を引き裂くだろう。だが迷うな。怯えるな。躊躇いの牙は不要な痛みを与えてしまう。全ての神経を研ぎ澄まし、少しでも対象の苦しみを短くするため、最速で仕留めるのだ。咎に塗れた我々に与えられた使命があるとするならば、ただそれだけだ。

 ……はい。

 身を屈め、叢から獲物に狙いを定める。ゆっくりと四肢を動かし、対象との距離を詰める。
 命への畏れと覚悟に、全身の神経が研ぎ澄まされていく。
 爪は大地の震動を感じ、鼻は草に紛れ脈動する命の匂いを嗅ぎ分ける。
 眼は獲物の筋肉の微細な動きまで捉え、耳は風に震える己の高鳴りを聴く。

 僕はこれから、あの生命を、殺す。

 後ろ脚の筋肉を爆発させ、風を切って駆ける。
 草原が青と緑に溶けて流れていく中、視界の中心は獲物だけを捉えて離さない。
 その若いシカはこちらに気付き逃げ出そうとするが、それよりも速く僕の牙が首元の柔らかな肉に食い込み、引き裂いて貫く。
 血と肉の匂いが、太古からの遺伝子を震わせ、身体の奥底の本能が雄叫びを上げた。
 獲物は苦しそうな悲鳴を上げ最期の力で暴れる。
 僕は眼を見開き全霊の力を込め、その命の輝きを噛み砕かんと抑え込む。

 頼む。頼むから。

 早く、死んでくれ。

 蝿と共に死の匂いが集い出し、やがて獲物は動かなくなった。
 僕が顎の力を緩めると、それは力なく草原に崩れ落ち、一陣の風が悲しげにその柔らかな体毛を撫でた。
 生命は僕の牙により、輝きの失われた肉の塊と成った。
 遠くで親と思われる一対のシカが、尾を震わせながらこちらを見ている。
 天から降るスコールの前触れの様な滴が、僕の眼から溢れ頬を伝い、口元の血と混ざって薄紅の一滴となり大地に落ちた。

――見事だ。我が息子よ。

 後ろから、太く逞しい声が響いた。
 草を踏みしめ僕の横まで歩くと、その黄金の鬣を靡かせ、悲しく優しい瞳で、動かぬ肉塊となった獲物を見つめている。
 その体に背負う沢山の傷が、その心に潜む数え切れない傷が、今の僕には見える。
 今まで当たり前のように与えられてきた生きる為の糧は、こんなにも悲痛な叫びの果てに生み出されたものだった。
 生きるとは、これ程までに身を切り裂く様な、誰かの悲しい喪失の果てに成り立っているものだった。

――我々肉を喰らう者は、両の眼が前に向いている。

 傾き出した太陽に照らされる黄金の獅子は、遥か彼方の地平を見据え、その地響きの様な優しい声で言った。

――それは獲物を追う為だけではない。生きる事の痛みが、時に脚を掴んで離さなくても、それでも我々は前を向いて生きなければならないからだ。生まれ落ちたその瞬間から、我々の種の維持と繁栄の為、奪ってきた命への責を果たす為、いつかその天命を全うするまで、生き続けなければならないからだ。

 目の前の喪失で満ちる僕の心はその言葉を受け止めきれず、躊躇いの波紋は声となって漏れ出た。

 ……これ程までに苦しい世界で、何故僕達は生き続けるのでしょうか。

 僕の呟く様な問い掛けに、父はその眼を僕に向け、諭す様に答えた。

――その答えはお前が懊悩の旅の中で探し、見つけるものだ……。ただこれだけは覚えておけ。私はお前を守る為に生きている。お前が前を向き力強く生き続ける事が、私の願いであり、それが私の見つけた答えだ。

 またしても僕の頬を滴が伝った。今日の空はこんなにも赤く青く晴れ渡り、雲の一つもないというのに。

 僕は前を向いて胸に沢山の空気を取り込み、悲しみを振り切るようにありったけの声で吠えた。
 それはかつて聞いた父のものには遠く及ばず頼りないが、乾いた空気を震わせ雷鳴の様に轟いた。
 遠くで子の帰りを待ち続けていた二頭のシカが、慌てるように遠くへ逃げていった。

 頬を伝い続ける滴を構いもせず、僕は目の前の肉塊に顔を突っ込み、貪る様に噛み千切った。

 僕は生きる。
 僕はこれから、数え切れない程の生命を、殺し、奪い、生きていく。
 この罪と、むせ返る様な血の匂いを抱えて、それでも、生き続けていく。
 この、優しくも残酷な世界の中で、どこまでも、前を向いて。

『逢う日、花咲く。』で第25回電撃小説大賞を受賞し、デビュー。著書は他に『明けない夜のフラグメンツ』『世界の終わりとヒマワリとゼファー』『君を、死んでも忘れない』『この星で君と生きるための幾億の理由』『あの日見た流星、君と死ぬための願い』

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