お題:恋愛
引っ越しの準備の最中、懐かしい本から、はらりと一枚の栞が落ちた。
月が、綺麗ですね
それは何の柄もないただの厚紙で、その言葉だけがそっと囁くように書かれている。印刷ではないから、ユキの手書きなのだろう。
暫く眺めた後、ふと窓のカーテンを開けたが、あの日のような雪が暗闇の中を静かに降っているだけだった。
白い、白い夜。しんしんと、想いばかりが募るのに、私はまだ、泣けないでいる。
○
高校の頃憧れていたユキと大学の図書館アルバイトで再会したのは、奇跡だと思った。仕事をしながら、本好きな私達の会話は弾んだ。
ある日書庫の整理で遅くなった私達は、暗くなった空の下を並んで歩いた。二人で歩けるこの時間が、私はとても好きだ。
二人の息が白く寄り添うように溶け合って、真冬の月を揺らす。凍える寒さも、彼との会話があれば楽しくさえある。
「昨日、さ」
月を見上げていたユキが、口を開いた。
「美佳さんから、告白された」
「えっ」
それは私の親友の名だった。
「君の友達だろ」
「そうだけど」
「断っても、大丈夫かなと、思って…」
「断る?なんで?」
「だって、俺は」
「よかったじゃん!彼女いい子だよ。幸せにしてあげなよ。泣かせたら許さないからね!」
力いっぱい彼の背中を叩いた。泣きそうな顔を見られないように背を向ける。
「じゃ私、買い物あるから、一人で帰ってね」
コンビニに駆け込み泣きながら肉まんを買って、外で泣きながら頬張った。湯気と涙で、月の光がぼやけて見える。
美佳は大切な友達だし、器量も性格も、私は彼女に敵わない。
密かに憧れ続けていた恋は、今日、誰にも知られる事なく終わる。私が一人泣くだけで全て丸く収まるなら、それで、いい。
やがて二人は恋人となった。私はその後もバイトを続け、ユキとも変わらず接したが、二人で並んで帰る事はなかった。先に待っていた美佳のもとに向かう彼の背中を見送ると、いつも心は苦しく軋んだ。でももう泣かないと決めたから、私は一人、冷たい空気を吸い込む。
○
「これ面白かったから、読んでよ」
そう言って彼に本を渡されたのは、それからひと月後だった。私は曖昧に頷いて、帰ってからそのまま書棚にその本をしまった。彼を心から取り払おうとする度に痛む胸が、ページを開く事を躊躇わせた。
結局読まないまま二年間眠り続けていた本が、私を過去に引き戻す。
床に座り、ページをめくる。時も忘れて引き込まれる。荷物だらけの部屋は消え、音もなくなり、心は文章の世界に溶け込む。彼がかつて歩んだ場所に、私も寄り添うように、その足跡を、辿るように。
それは、強く想い合いながら不幸な事故で別れた男女が、何度も生まれ変わりながら再会と死別を繰り返し、最後にようやく巡り合う、そんなお話だった。
読後の切ない余韻の中、美佳から電話だ。
「就職するとあまり会えなくなるからさ、今度どこかで遊ぼうよ」
他愛ない世間話の後、ふと栞の事を思い出す。
「次会う時、渡すね」
彼が遺したものは、美佳が持っていた方がいい。何て書いてあるのと聞かれ、その簡素な一文を読み上げると、彼女は黙りこんだ。
「美佳、どうしたの?」
「……それは、詩織が持ってなよ」
彼女は、泣いていた。
「詩織、本好きなのに、知らないの?」
「え?」
「それね、I love youって意味なんだよ。夏目漱石がそう訳したんだって……。彼、私に優しくしてくれながら、いつも寂しそうに遠くを見ているようだったけど、それは……詩織だったんだね」
電話を終え外に出ると、雪は未だにしんしんと、想いと共に降り続いている。
「泣かせたら許さないって言ったのに、彼女を二度も泣かせるなよ……」
一年前の、ちょうどこんな雪の日。スリップした車から美佳を守り、彼は帰らぬ人となった。葬儀の後叫び泣く美佳を抱き締めながら、私は泣けない自分に驚いていた。あの日から心は、冷たい石のように眠っていた。
でも、今日――
舞う雪がひとひら、私の頬に降りた。冷え切った体温でも、生きている私の体は雪を溶かす。雫は頬を伝い、首を伝い、胸に落ちる。
空を見上げると厚い雲が切れ、明るい満月が雪を銀色に輝かせていた。
気付くと私は――泣いていた。
「ああ……」
感情も涙も、止めどなく溢れた。
「月が……」
心は今も、確かに息づいていた。
「綺麗ですね……」
声が、小さすぎるよ。気付かせるのが、遅すぎるよ。
「今でも、月が綺麗です!」
気付かずに、遠ざけて、ごめん。
「ずっと、綺麗です……」
もし次の命で、また巡り逢えるなら。今度は正面から、あなたの心を受け止めるよ。
例え見つけられなくても、何度でも生まれ変わって逢いに行くよ。
だから今は、あなたのいない世界を、私は、生きていきます。
しんしんと降るあなたへの想いを、この小さな栞と共に、大切に抱き締めながら。