お題:待つ人
彼女は奇跡だった。
黎明の光の中でそれは踊る様に、唄う様に、自らも光を放っているかの様に美しく舞っていた。
彼女は希望だった。
いつも見上げていた。
ずっと眺めていた。
焦がれていた。
――あなたはいつも、そんなに険しい顔をして何を待っているの
だからそれが僕に向けられた言葉だと気付くのに、時間がかかってしまった。
……命だよ
――命を待ってどうするの
彼女は無知だった。
その眩しさに、僕は八つの眼をそらした。
……友達になるのさ
僕の言葉を聞いた彼女は小さく笑う様に囀って、朝露に似た静けさで、
――素敵ね
そう呟いた。その声音には、何処か孤独の匂いがした。
彼女は、青い羽根を持つ美しい鳥だった。
そして僕は、八つの眼と八つの脚を持つ蜘蛛だった。
その日から彼女は、度々僕に会いに来た。
昏い森の奥から彼女の羽音が聞こえる度、乾燥してひび割れていた僕の心に、温かな雫が落ちた。
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――私達はもう友達よね
そう言って彼女はある日、僕を背に乗せ空を舞った。
風圧に飛ばされぬよう必死でしがみついた彼女の羽根は、柔らかく温かく、空に同化しそうな程爽やかに青くそよいだ。
その光景は、彼女に逢わなければ永遠に見る事の叶わない景色だっただろう。世界がこれ程までに広く輝いているものだとは、僕は知らなかった。
彼女は奇跡だった。翼は自由だった。
僕は幸福だった。彼女に逢えた事を誇りに思った。
それなのに友達と呼ばれた事に、何故か胸の奥が痛んだ。
――ねえ、お願いがあるの
……何?
――私が死んだら、あなたのベッドに眠らせてくれないかしら
……死ぬの?
――あなたのベッド、とてもフワフワで気持ち良さそう。出来ればうんと大きなのがいいわ。空を飛んでいる気分になれるくらいの
……分かった。約束する
彼女の望む事は、何でも叶えよう。
胸の奥を暖め締め付ける青い羽根の煌めきに、僕は誓った。
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その夜から僕は、彼女の死を柔らかく包む最高のベッドの為に、糸を紡ぎ続けた。
月の出ている夜に作れる銀色の糸だけを使った。
彼女は特別だった。特別すぎて、苦しかった。
入り組んだ糸が八つの涙で濡れ、月の光が乱反射した。
ベッドに迷い込んだ愚かな獲物は憎悪をもって一欠片も残さず捕食した。
彼女の美しい瞳に醜い残骸を見せる事など、あってはならない。
彼女の躯を確実に支える為、周囲のあらゆる植物に糸を付けた。
彼女が寂しく感じないように、何よりも大きなベッドにした。
いつの間にかそれは大熊をも捕らえるものになった。彼女のベッドから力任せに抜け出そうとする熊を、僕は欠片も残さず貪った。
馬鹿な動物に大切なベッドを荒らされる度、補修と増築を繰り返した。
彼女は奇跡だった。特別だった。希望だった。切望だった。
彼女は歌だった。夢だった。空だった。恋だった。愛だった。
それなのに彼女は、一緒に空を飛んだあの日から、姿を見せなかった。
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銀色のベッドは、やがて森を一つ飲み込んだ。
糸にかかる全ての命を食べ、いつしか僕の躯は熊よりも大きくなっていた。僕を討ちに来る人間が持つ布や鉄や火薬は、食べるのに苦労した。
僕は彼女の姿を探すように、ベッドを広げ続けた。
やがて森から近い人間の町を取り込んだ時、見なれた青い羽根を見つけた。環状の紐や透明な石が付けられ、沢山並べられていた。
ふと彼女の笑い声が聞こえた気がして、その方に眼を向けると、羽根の抜け落ちたみすぼらしい鳥が籠に捕らわれていた。
――正直ここまでやってくれるとは思わなかったわ
……君は……
――私はね、何としてでも復讐したかったのよ。私の仲間や家族や恋人を捕らえ、幸福の羽根で欲を満たそうとするこいつらにね。あなたは醜いけれど最高の道具になってくれたわ!
ようやく逢えたと思ったが、彼女ではなかったようだ。あの美しい青い羽根がないし、何より彼女がこんな事を言うはずがない。僕は糸を伸ばし、乾いた笑いを続ける鳥を籠ごと絡め捕り、バリバリとそれを食べた。
肥大化した八つの眼から、何故か雫がボトボトと零れ、彼女の銀色のベッドを濡らした。
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僕は今日も月の光の下、銀の糸を紡ぐ。
彼女が迷ってしまわないように、遠くにいてもすぐに見付けられるように、この特別なベッドをもっと大きくしよう。
いつか彼女が空から見せてくれた広く輝く景色を、全て彼女のベッドにしよう。
そうだ、この星を全て包めば、もう彼女が迷う事もないだろう。
胸は引き裂かれるように痛み続けている。
八つの眼がいくら涙を流しても、乾いてひび割れた心は潤わない。
早く彼女で満たされたい。
彼女は奇跡だ。究極だ。希望だ。夢だ。愛だ。
だから僕は待ち焦がれている。
いつか彼女の安らかな死を、穏やかな寝顔を、このベッドで柔らかく包む日を。