お題:迷う人
言葉は、羽に似ている。
言葉は、鎖に似ている。
<手紙の誤配があったようです。申し訳ありませんが、気付かずに読んでしまいました>
あなたがくれた全ての手紙を右手に持って、私は海を見下ろす崖に立った。闇の中うねる波は目に映らないが、強い波音が誘うように繰り返されている。ここに来るのは、もうこれで何度目だろう。
今日こそこの言葉を全て捨てる。それが出来なければ、私の魂ごと、この暗い海の底に沈める。
目を閉じて大きく息を吸い、紙の束を持った右手を、月だけが静かに輝く夜空に掲げた。
<あなたが思う程、この世界は捨てたものじゃないと、僕は思っています>
あなたの顔も知らないのに、あなたを取り巻く空気は容易に想像できた。暖かな気配に溢れ、柔らかい輝きに包まれた光の世界の住人。私なんかが本来関わるはずもない相手なのに、運命の残酷な戯れによって迷い込んだ手紙が、私の叫びを閉じ込めた言葉が、微かな糸を繋いでしまった。
あなたの綴る言葉は、優しく激しく私を包み込んで揺り動かし、消え入りそうな魂に息を吹き込み、叶わない希望をちらつかせた。
<出来る事なら僕の手で、あなたの涙を拭いたい>
目を閉じても、心を殺しても、いつでもあなたの言葉が浮かび来て降り積もる。それはいとも簡単に私を掻き乱し、幾重にも纏った壁を破壊して、柔らかな心を突き破って絡みつき締め付ける。
あなたの言葉が、私にとってどれだけ暖かく特別なものだったか、あなたは知っていますか。
あなたの言葉が、私をどれだけ縛り付け苦しめたか、あなたは知っていますか。
<あなたを救う為であれば、僕はこの日常を投げ打つ事も厭わない>
そんな無邪気で切実な言葉で追い詰めて、私がその手を取れると思ったのですか。その暖かな輝きを砕いてしまう選択を、どうして私なんかに委ねるのですか。遂げられない優しさは棘よりも残酷であると、露ほども気付かなかったのですか。
止まらない涙を拭いもせず、湿った夜の空気を痛いほどに噛みしめ、上げたままの右手を振り下ろそうとしても、縛り止められたかのように腕は動かない。月光に照らされて淡く銀色に輝く蜘蛛の糸が、腕に張り巡らされているようだった。
子犬の呻き声のような情けない嗚咽が、喉の奥から漏れ出る。私は世界で永劫に孤独な気がした。
<どうか泣かないで下さい>
私を今泣かせているのは、他ならぬあなたです。
<幸せでいて下さい>
幸せとは何ですか。あなたの隣以外に、どこにあると言うのですか。
<僕に出来る事はありませんか>
どうかせめて、せめて、私を忘れないでいて下さい。いいえ私を忘れて下さい。私なんかに捕らわれないで下さい。
そしてどうか、せめて私の中でだけでも、淡い光を与え続けて下さい。いいえ今すぐ消えて下さい。私を解き放って下さい。
<あなたが思うよりも、あなたは自由で、幸福で、そして味方も多いはずだ>
今なら、飛べる気がした。何度も躊躇った一歩を。あなたが背中を押してくれる気がした。あなたの言葉が、泣き叫んでも叶わない願いが、この背を突き落としてくれる気が、した。
右手を糸に絡め取られたまま、左足を前に出す。砂利を踏みしめ、右足を前に出す。波の音が真下で響く。
さよなら、顔も知らぬあなた。さよなら、暗く昏い世界。
<例えこの手が届かないとしても、僕はあなたの為に生きる>
「うあああぁ!」
抑えきれない叫びを溢れるままに、私の右手は闇を切って便箋の束を解き放った。夜の黒の中に、月光に照らされてヒラヒラと白が踊る。途端に後悔が溢れて手を伸ばしたくなったが、海風に煽られて舞ういくつものあなたの言葉達が花弁の様に美しく、私は息をするのも忘れて見入っていた。
苦しくも、生きなければならないなら。あなたがそれを望むなら。
私は私の中のあなたを切り捨てて、生きて征きます。
一つの深呼吸の後、踵を返し、風を切って歩く。
何も失っていない。一時の夢が醒めただけ。始まりに戻っただけ。
……始まり?
ヒールが足元の石を掴み損ね、私は両手両膝を地面に着いて倒れた。
始まりに戻った? その始まりから逃げたいというのに。
何も失ってない? 失うものばかりじゃないか。
私は声を上げ、四つん這いのまま子供のように泣いた。
それでも明日が来れば、私は何事もなかったように生きるのだろう。切り捨てきれないものを抱き締めて、時折溢れそうになってまたここに立っては、あなたの言葉に手を引かれ踏み止まり、また次の日を生きるのだろう。
<僕は、あなたを忘れない>
私は、あなたを……。
言葉は、救いに似ている。
言葉は、呪いに似ている。