【三題噺】星空に叫ぶラブソング

【三題噺】星空に叫ぶラブソング

 流れ星に願い事を言うと叶うんだよ。

 病室の窓際で星空を見上げながら、耳に息がかかる程の近くで声を潜めて教えてくれた少女は、僕が退院した一週間後に、行方不明になった。


 ピー、ピー、ピー

 電子的なアラーム音が、調理の終了を知らせる。調理と言っても、冷凍の炒飯を温めるだけの簡素なものだ。電子レンジの音が、あの情緒ある「チーン」ではなくなったのがいつ頃だったか、僕はもう思い出せない。

 母子家庭の一人息子である僕は、幼い頃から電子レンジが、料理を作ってくれる母親の代わりのような存在……と言ったら過言だが、冷蔵庫に入れてある冷凍食品で食事を済ますばかりの日々で、お世話になり続けている事に違いはない。

 母親は仕事を終え遅い時間に帰宅すると、たった一人の子供を抱きしめてごめんねと呟き、疲れているだろうに暫し一緒に遊んでくれる――という様子もなく、寧ろ僕の存在を煩わしく思っている事が、子供心にもよく分かった。時には知らない男を連れ込んでくる事もあり、そういう時は五百円玉だけ握らされて、雪の降るような冬の夜だろうとお構いなしに、数時間外に追い出された。

 僕は行く宛てもなく、アパートのドアの前で男が帰るのを待ち続ける日もあれば、近くの海まで歩いて震えながら波の数を数えるような時を送った。息をする度に、心にぽつぽつと小さな穴が開いていくような気がした。自分の体の内側がスカスカのスポンジみたいに思えて、絞り出しても流れない涙を、頬に落ちた雪が代わってくれたりしていた。

 そんな生活が祟ったのかどうかは知らないが、小学六年の夏の始め、僕は肺炎になって病院に入院した。母親にとっては、入院費がかかる事は苛立たしいだろうけど、僕を遠ざけて一人になれるのが好都合だったのだろう。入院の手続きだけして、その後は見舞いに来るような事もなかったが、そんなのは分かっていた事だ。

 ――そう自分に言い聞かせながら、心の底の底で少しだけ期待していた自分を、嫌いになった。そこに水溜まりみたいに残っている愛情への希求を、一滴も残らず捨ててしまいたかった。


 四人部屋の病室では、窓際のベッドを充てがわれた。入口側の一つは空きで、もう一つは口煩いお爺さんが寝ていた。そして窓際の、僕の向かいとなるもう一つのベッドに、白瀬詩織はいた。自分と同い年くらいと思われる、肩までの黒い髪で顔がよく隠れるその女の子は、何時でも暗い顔をしていて、全然笑わない子だな、というのが第一印象だった。後から聞いたが、向こうも僕に対して同じような印象を持っていたらしい。

 数日は言葉を交わすこともなかったけれど、お互いに見舞いに来る人が一人もいない境遇に、彼女は僕に興味を持ったようだ。少しずつ話すようになり、一週間もすると、子供ながらの純朴さと、他に楽しみもない事も手伝って、僕達はすっかり打ち解けあった。暗い子だと初めは思ったが、夕暮れの明かりの中で笑う詩織は星屑のような光を放っているように、僕には見えた。その度に、ひび割れた心が心地よく潤っていくのを、僕は止められるはずもなかった。


「ねえカズくん、歌を歌ってよ」

 ある日の夜、彼女は僕にそう囁いた。

 消灯時間の後、ベッドカーテンに隠れて二人で窓際に並び、夏の夜空を眺めるのが習慣になっていた時だ。この部屋のもう一人の患者であるお爺さんの時田さんはとっくに寝息を立てているが、物音を立てると飛び起きて、そして怒られた後に戦争の話を飽きるほど聞かされるので、声量には細心の注意を払う必要があった。

「え、なんでだよ。いやだよ」
「ザトウクジラってね、」

 僕の抗議に耳も貸さず、詩織は言葉を続ける。

「雄クジラが、雌クジラに、ラブソングを歌うんだよ」

 その言葉と、さっきのお願いの裏に意味する事を深読みし、僕は顔が熱くなっていくのを感じた。が、赤面は夜の暗さが隠してくれているだろう。

「……やっぱりクジラ、好きなんだな」

 そう誤魔化す事しかできなかった。彼女はベッドの上でよく、目を輝かせてクジラの図鑑を読んでいた。

「ザトウクジラの学名はメガプテラって言うんだけど、『大きな翼』って意味なんだって。カッコイイよね」
「そうなんだ」
「その大きな翼で、ブリーチングっていう、海面でおっきなジャンプをするんだよ。30トンの巨体でね。すごいなぁ、見てみたいなぁ。というか、私はザトウクジラになりたいんだよ」

 詩織は好きなものを語る時、少し興奮する。その瞳の中で月が輝いて揺れていた。彼女の病名やその進行度合いは知らないけれど、きっと僕なんかよりも深刻であろう事は、時折苦しそうな顔を見せることから容易に想像できた。
 だから、彼女のその願いを、僕は笑い飛ばすことができない。

「ねえ、カズくん」

 詩織は僕の顔を見上げて言う。

「歌ってよ。私のために」

 僕は体の内側から沸き起こる熱い感情を奥歯で噛み潰して、当たり障りのない言葉だけを選んだ。

「今は無理だよ。時田さんもいる。二人とも退院したら、その時お祝いに歌ってあげるよ」

 顔を輝かせた彼女は、僕の手を取って小指を絡めた。

「約束だよ!」

 曖昧に頷いて、照れ隠しに視線を窓の外に移すと、夜空にひとすじの白い線が流れて消えた。

「あ、流れ星……」
「えっ、どこ?」
「もう消えたよ」
「ちぇー。流れ星に願い事を言うと叶うんだよ。早く退院できるようにお願いしたかったな」

 詩織は空を見たまま手を下ろしたけど、絡めた小指はそのままだった。僕は体の熱がその指を通して伝わってしまわないか、そればかりを気にしていた。
 僕の内側のスポンジは、いつの間にか彼女の存在だけで、熱く、溢れてしまいそうなほど、満ち満ちていた。


 やがて僕の病状は快復し、退院の日となった。詩織はそれを大袈裟に喜んでくれたが、僕に隠すように寂しそうな顔をする事が多くなっていた。
 荷物をまとめていると、病室の扉が開き、母親が現れた。病院特有の消毒液の臭いに顔を顰めながらこちらに歩いてくる。

「ほら、行くよ」
「待って、もう少し準備が……」

 隠そうともしない舌打ちの後、母親は無遠慮に病室の中を見回し始めた。
 僕は詩織に何か言いたくて、でも何を言えばいいのか分からなくて、わざとゆっくり荷物を整理していた。

「あれ?」

 その声に顔を上げると、母親が詩織のベッドのネームプレートを見ていた。

「白瀬、詩織って……」
「あの……何か?」

 ベッドの上で体を起こしていた詩織が、不思議そうな顔をする。

「もしかしてあんたの父親、優成って名前じゃないでしょうね?」
「え、そうですが……、父を知ってるんですか?」

 母親は「あはっ」と甲高い声で笑って――

「知ってるも何も、そいつとの間にあんたを産んだのが私なんだよ! まさか姉弟で同じ病室に入ってるとは笑えるね。優成はどう、相変わらず遊んでるの?」

 詩織が顔色を失って、愕然とした表情でこちらを見るのを、僕はきっと同じような顔をして、ただ見返していた。

「ちっ、無視かよ。まあいいけどねあんな男どうなってようが! ……和弘いつまでやってんだよ、行くよ!」

 僕の荷物と腕を強引に掴んで、母親は扉に向かって歩いて行く。引きずられるように歩きながら、僕は詩織を見ていた。彼女は同じ表情のまま、空になったベッドをただ見つめている。
 どうする。この腕を振りほどいて、彼女の所に駆け戻るか? 住所や連絡先だけでも聞き出すか? いや、でも、彼女は、僕の……
 頭がまともに働かない。身体に力が入らない。そのまま僕は病室を出され、車に乗せられ、狭いアパートに連れ戻され、――そして翌週、詩織が消えたと聞かされた。

   ☪

 僕はレンジで温めただけの冷凍炒飯を掻き込むと、荷物を持ってアパートを出る。

 詩織の失踪を悲しむ者は世界に僕一人しかいなかったらしく、まともな捜索願いも出されていないようだった。
 僕はあれから中学、高校と進学して、バイトをしながら一人暮らしを始めた。休みの日やバイトのない日の学校の後は、詩織の姿や情報を、宛てもなく探して歩いた。今日ももう日が暮れているが、とても休んでいられる気分ではなかった。
 今日で、彼女の消失から、ちょうど五年になる。

 息を切らして、僕は石の階段を登る。広い視界の確保が必要だった。
 時が、想いを薄れさせるなら、僕はこんな事をしていない。
 血が、僕達を否定するなら、僕はこの血を否定する。
 スカスカのスポンジに、たったひと月程で隅から隅まで染み渡った温かさと愛情は、五年程度ではその温度を奪うことはできなかった。
 詩織が消えてから、かつて彼女が教えてくれたように、流れ星を見つける度に詩織の帰還と無事を願った。でも大気圏で燃え尽きるたった一粒の星屑が、人の願いを叶えてくれる事などない。

 でも、今日なら――

 階段を登りきると、眼下に砂浜と海が広がった。夜の海は黒く凪いでいて、月の光を無数の漣がキラキラと反射している。その上を、ひとすじの白い線が走って消えた。

 ――八月十三日の今日は、ペルセウス座流星群の最接近日だった。

 砂浜まで降りて、上を見る。遮るもののない夜空に、ひとつ、ふたつ、と星が流れ、時が経つにつれてその数も増えていく。その度に僕は強く願った。

 生きていてください。
 元気でいてください。
 幸せでいてください。
 欠片でもいい、僕を覚えていてください。
 約束を叶えさせてください。
 逢わせてください。
 触れさせてください。
 抱きしめさせてください。

 無数に流れる星のように、僕の頬にも雫が伝う。
 どうか。どうか。どうか。

 ――ドオォッ!

 遠くで地鳴りのような大きな音がして、僕は驚いて視線を下げた。そして、目を見張る。

 視界に広がる海の中腹。その水面を盛大に掻き分けて、一頭のザトウクジラが宙に飛び出していた。それはゆっくりと舞いながら巨躯をひねり、激しい音を立てて背中から着水する。跳ね上がるいくつもの水飛沫が、僕の所まで飛んでくるかのようだ。

 僕は笑った。

 そして、何故詩織が五年前のこの日に消えたのかと、彼女がその日の流星群に何を願ったのかを思い知った。

 クジラはその大きな翼をはためかせて再び海面を割り、箒星が舞う空の下に力強く、悠然と飛び立つ。僕は肺を海風で満たし、ずっと言いたかった事を叫ぶ。

「退院、おめでとう!」

 そして僕は涙を拭うと、彼女に届くようにありったけの声で、下手くそなラブソングを、いつまでも歌い続けた。

※※※※

初めての三題噺チャレンジ。お題は村谷由香里さんから頂いた、「くじら」「流星群」「電子レンジ」でした。
ありがとうございました!

『逢う日、花咲く。』で第25回電撃小説大賞を受賞し、デビュー。著書は他に『明けない夜のフラグメンツ』(メディアワークス)、『世界の終わりとヒマワリとゼファー』(パレードブックス)。

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